東京雑記

‐Tokyo Miscellaneous Notes‐

日本の組織論

 SNSで所属している組織の名を語り、誹謗中傷を繰り返すアカウントがある。その行為を指導しきれない本部がある。嫌がらせをしたくない為、そのアカウントを追求はしないが、あるキーワードで検索すればすぐに出てくる。対立する立場の人間に対して、誹謗中傷を投げかけることが真理だとは私にはとても思えない。だからとても不思議なのである。お題目を唱えてさえすれば、悪口を言っても良いのだろうか。信心とは何であろうか。私はこれまで仏法を学んだわけではない。ただいくつかの簡単なものを見聞きしただけである。それでも他人の不幸を望むことで幸せになれるとは誰も伝えてはいない。むしろ、他人の幸福のために動くことや、まずは生きている間に幸福になることを説いている。

 最近、『哲学と宗教の歴史』についての本を読み、また親鸞聖人や弘法大師の映画を見て、素人ながらに思う事はあった。お題目を唱え、日々の精進をしている方々が、なぜ、他人の誹謗中傷を信じられない言葉遣いで、所属組織の名前を出して、教えを解いているのであろうか。

 ただ言葉は他者の為ではなく、自分たちに返ってくる。私が一般の人であれば、上記でよいのであるが、今私は全体の幸福を考え、推進していく立場である。そのため、少なくとも自分自身はそのようなことがないように生きていきたいと思い、今後の言葉を律していくように、ここに誓う。また私がもし安易な言葉を使い、他者を攻撃するようなことがあれば、厳しく指導をしていただきたいと切に願うのである。

 

 この話は目に見えない。気を使った話ではない。Twitterの中で文字に見える形で行われているものである。何故自ら名を名乗り自らをおとしめているのか、私には理解不能であるが、検索すれば出てくるので、まだ信じられない先輩方々は子や孫に教わり、SNSで検索をして確認してみると良いと思う。もちろんそのアカウントのいくつかは、その組織を貶めるための偽アカウントであろう。それを含めて、きちんと運営もとに報告を入れるべきだろう。

 

  この『日本の組織論』では、特定の組織にダメ出しをしたいわけではなく、組織の在り方を構築していく為の序章である。

 組織の腐食は、個人が組織に属し、組織の力を個人の力だと思い込み、組織に属していない個人を迫害する。さらに組織の指導部は、組織を維持すること自体が目的となってしまい、組織結成時の目的を完全に失ってしまう状態が続くと組織が腐敗していく。

 おそらく一般の人々は既に気づいてわかっていることである。誰が最後の1人になるのか。それが次第に見えてきたように思うのである。

私の言う最後の1人と言う意味は、ニーメラーの最後の1人と言うことである

「私が連れていかれた時、その時、もはや誰も助けてくれなかった」

 なぜそうなったのか、ニーメラーの詩の全文を読むとたいへん勉強になる。

 私の意見は組織運営側に立っている。だから、組織に属し組織を利用する人間の倫理は、理解はできるが、運営側としての意見になる。

 組織を語るとき、属する人間の個人の特性を列挙し、その組織全体を現す事はできない。例えば日本人は何々である。と言う時に、日本国民全体の中で、ほんのわずかな法律で禁じられていることを犯すような人間もいる。それを抽出して、日本人は非道徳的である、と言われたらどう思うであろうか。組織とは人数が増えれば増えるほど、そのような人間も属してくるのである。しかしここが私は大切だと思うのであるが、非倫理な行為をして、法律を違反したら、刑罰により罰せられる。つまり、その行為を日本の価値観としては、よろしくないと日本人は思っている、と内外に発信をしているのである。ここで先の事例に戻りたいと思う。もし組織が非倫理的な行為を『是』としていないのであれば、組織の本部は指導及び整理をするように内部また外部に対して指示や意見を表明することが望ましい。くどいが、特定の組織を指してはいない。これは組織運営のためのナレッジとして、私自身がまとめ、今後に生かすために書き記しているだけのことである。誤解ないようにしていただきたい。

 ある組織に属する人間が、匿名でSNSで活動をする。匿名のインフルエンサーが誕生する。しかし、組織では別の人格で過ごしている。この問題は何であるかと言うと、匿名の人格は責任を取らないのである。或いは、責任を取れないのである。

 もしも言葉が刃物であるならば、使い方をわからぬ者に渡す必要はないと考える。刃物は使い方を誤れば人を死に至らしめるものである。言葉もまた同様である、と私は考える。

 

 現在、サイバー空間で匿名が存在する世界はダークウェブだけだろう。表層ウェブでは匿名風なだけで個人や法人の籍と紐付いたアカウントである。それはデジタルネームとでもいうべき、SNSで活動するためのペンネームのようなものである。さらに中の人が誰であるか、まわりは気づいているのである。

 

 私はこのような考えから書いては書き直し、ブログやノート、SNSを修正しているのである。たまに過去のツイートを気になり見ていると、一時の感情で書きなぐったものが残っていることがある。これは自戒を込めて言うので、他者に向けた言葉ではない。先ほどな刃物の例を出したが、一時的な感情で刃物を人に向けたら、その人間と自分自身の一生を台無しにする。さらに自分の家族、知人、友人の関係を含めて全てを失っていく。刃物と言葉が同じであるならば、私は、言葉の使い方に、同じような緊張感を持ち、正しく使っていきたい。