東京雑記

‐Tokyo Miscellaneous Notes‐

たったひとりで世界は変えられる。

1年前に書いたブログ

1年前に書いた自分のブログに励まされる。やったこともなく、誰かが「頑張れ」と後押しをしてくれていた時期。ただ「波」に乗っていこうとしていた。

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この頃、考えたことは現実になっているし、壁にもぶちあたっている。

「やれ! とにかくやれ!」

「今は、とにかくやる時期だ」

そう言われている気がするし、実際に自分でもそう思う。

もうすでに私には言い訳する相手もいない。

そして、こんなことも書いていた。

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もう簡単に言ってくれている。

今の自分はどこにいるのか、考えながら、進んでいく。

すべてを楽しんでいる

世界の見え方が変わり、

自分自身の気持ちが変わり、

自分の見た目が変わったとしても、

自分は自分であり、

考える前に言葉がでてきて、

誰かに導かれるように、歩いていたとしても、

 

結果、その行先は、私自身が行きたい場所であり、

私が時間をかけて、行動していることである。

 

人生とは?

とても小さな声で言う。

 

「人生とは、何か?」

生物学と社会学の面からアプローチしていった。

まずは様々な生物と共におなじ時間と空間を過ごすこと。

そして、自らの頭で考えて、自らの心で判断し、自らの体で行動することにより、

自分のいる空間と時間に新しい世界を創ること。

さらに、その世界を他の生物と共に有し、共に生きること。

 

【2023.02.06追記】

 

 2020年の夏から秋にかけて、個人的にしんどい時期になっていた。私の世界は、ひっくり返ってしまったかのように人間関係が変わっていった。親も妻もすべての存在が《虚》になってしまい、それでも何か《実》があるような、この世の中で、信じられる部分を探していた。そして、そして、自分の思考を再構築するために、《哲学》と《信仰》の歴史を紐解いて、アプローチもしていった。

 

 一番、私がしっくり来た考え方がある。それが空海の密教にある言葉であった。私は実際に修行しているわけではないので、あくまで、見聞きした”言葉”である。

 

《密教》との出会い

 私と密教の出会いは小学生のころになる。家の押し入れで、なんだか怪しげな書籍を見つけた。父の本だと言うことはすぐにわかった。それは埃をかぶりながら、押し入れの高いところの奥にしまってあった。私は家に誰もいないとき押し入れの奥から取り出して、開いた。男女の肢体が描かれていて、「なんだ?」と思った。今なら《春画》かな、と思うのだろう。高校時代に「カーマスートラ」を知り、そういうものだったのか、とも思った。

 

 この密教の教えについて、きちんと理解するまえで30年近くの年月がかかった。先日、2023年の1月に私は大阪に鶴瓶師匠の落語を聴きにいった。その後で、せっかく大阪まで来たのだから、とどこかに立ち寄ることにした。

 前から行きたかった《立体曼荼羅》を拝観するために『東寺』に参詣することにした。もう夕方だったので、私は京都の駅前に宿泊することにした。

 ひとり旅のときは、たいてい行先も宿も決めないで、ふらふら出歩いてしまう。この日もそうであった。夜は京都の街で、夕飯をとり、翌日の朝、『東寺』まで歩いた。ホテルから東寺は徒歩で歩いて20分程だった。

 私は初めて、弘法大師 空海の教えを知り、曼荼羅を拝んでいた。

 

「この世で幸せにならずして、あの世で幸せになれるものか」

 

 このセリフは映画『空海』のセリフである。空海を演じる北大路欣也さんが苦しむ民にむかって、伝えるのだ。このセリフに私は震えた。これだ、と思ったのである。

 大乗仏教の民衆を救うために、苦しい輪廻を断ち切り、浄土へ行く。仏のチカラで、大きな船でみなで行く。それはそうなのだが、この空海のセリフが腹に落ちてきた。そして、最澄が最後の教えを請いにくる。この極意というべき経典、人間の愛欲を書いている経典だ、と空海は最澄に伝える。私はふと思い出した。小学生のときに押し入れで見た、父の書物は、”それ”だったのではないか、と私は思った。あれから家を建て直し、父も歳をとり、密教に魅入られていたことはすでに過去となり、彼もこの現世を生きている。

 密教に魅せられたのは、まさに若いころの麻疹のように消えていったのかもしれない。40を超えて、思考の再構築をしている中で、若い頃の父の思考と会ったような気がして、立体曼荼羅を前に、私はひとり笑みをこぼしてしまった。

 

 2020年からはじまった私の『思想の探索』は、

 2021年に生物学や社会学とつながり、

 2022年は、哲学や信仰に繋がっていった。(追記はここまで)

私たちは存在する

 生物には、ウィルスと細菌のように、単体で存在するものと、宿主が必要なものとある。どちらが優れているとかいうことではなく、それぞれの生物としての特性である。そして人間はそういう細菌やウィルスと共存している。

彼らに意思があるとして、彼らは何なのか?

人間のように、社会的な考え方のウィルスもいるかもしれないし、遺伝子情報だけが発達した細菌がいるかもしれない。

これは抽象的な概念かもしれない。

目に見えないものを信じること

ウィルスも最近も目に見えない。つまり、目に見えない存在を私たちは信じている。

空気も目に見えない。触ることもできない。しかし、空気があるから、私たちは生きている。「つまり、見えない、触れない。だから、存在しない」とは言えない。

「見えなくても、触れなくても、そこに空気のように存在する存在」は、人間の体内にもいる。

 

自分とは何か?

自分をどう構成するか? どうイメージするか? 

そういうテクニックについては、先人が書いた優れたものを読めばよいと思う。今、この時代に考えたいことは、「なぜ、人には『社会』が必要になったのか?」である。

今から、すべてを破壊して、原始に戻るということもある意味おもしろいかもしれないが、多くの人類は、それを望まないだろう。「外的要因による死」から解放されつつある人類は、永遠の魂を選ぶ価値観の人もいるだろうし、限られた瞬間の燃焼に価値を見出す人もいる。私は、永遠ではなく、この瞬間の命の燃焼が一番楽しいと感じる。もちろん、その楽しい瞬間が永遠に続くことが一部の理想なのかもしれない。気持ちはわからなくもない。

人類は生物としての存在があり、

自分たちが創った「社会」の中での存在がある。

そのことを明確に意識して、生きていけば、

いつでも、ふさわしくない社会から自ら脱出し、

新しい社会へ移動できる。

 

また社会を創るよりも少ない人数でできることが、

「新しい世界」を創ることである。

「社会」を変えるときは、自らの影響下にあるところで、

「新しい世界」を創り、そして、

それを社会の構成条件までに拡大することで、実現可能である。

たったひとりが世界を変える方法

戦争を起こすのも、戦争をやめるのも、おなじ人間。

たったひとりで世界は変えられる。

しかし、社会で生きていく人にとっては、世界だけでなく、社会を変える必要があるかもしれない。たったひとりで「社会」を変えることはできない。なぜなら、「社会」とは、集団である。社会を変えるには、集団そのものの価値観を変える必要がある。

 

誰かの利益が誰かの不利益でない社会

誰かの利益がほかの誰かの利益であることが理想である。

そんな社会ならば、人間として、存在してみたい。おなじ空間に存在する集団構成員が多くなり、共有する領域が広がるなかで、統治が必要になり、法のもとの平等という知恵を使うのだが、果たして、何がどこまで平等になっているのか? これからは、不平不満ではなく、未来への実証実験をしていこう。

 

「生物学的な死」を人類から遠ざけることが「人類」にとっての幸せなのか?

個人の幸福追求が生きる目的でも意味でもないと私は思っている。幸福とは価値であり、価値とは社会性を伴うものである。つまり所属する集団の属性により、異なるため、人類共通の価値を創るためには、全人類がおなじ集団に属する必要がある。

 

つまり、それは「地球人」または「地球上の生物」としておなじ属性になる必要がある。そうすれば、何を所有し、どんな生活をしているか、など気にならない。

少なくとも、「地球上の生物」として存在する私には、社会的価値観については、気にならないのである。もちろん、社会的存在として、活動しているときは、髪型や服装には気をつける。他者の視線は気になる。