東京雑記

‐Tokyo Miscellaneous Notes‐

他人の生き方を覗き見ること

他人の人生

 他人の人生から学ぶことは多い。誰しも、一度きりの人生を失敗したくない。

人生ゲームのように、シミュレーションをしたい人がいる。それに何の意味があるのか、私たちにはまったく理解ができない。しかし、存在する。

 今日は、そのことについて、書いていく。ちなみに大前提として、私は、職場や友達と『遊ぶ』ことには歓迎すらしている。ただ街中で出会う見知らぬ他人に無断でしかも無料で使われる覚えはない。(有料でもお断りである)

 さて、そこでこの国には、『新しいルールが必要だ』ということではある。これは公共のルールを早急に創る必要がある。ここまで《社会の問題》である。

 

 続いて、個人的な問題について、である。それでは、

 「なぜ、人生を他人の生き方をみて、シミュレーションするか?」

 このことについて、論じていきたい。例えば、自分の『親』の人生がすばらしい生き方であるならば、その『親』の生き方をコピーをすればよい。もしくは、『親』のようになりたくないのなら、本や他人の話を聞き、新しいオリジナルな生き方にトライすればよい。いくら机上の想定を駆使しても、そのように人生は進まないのである。

 もうひとつ自分自身の身体で理解したことはとても大切な情報源になる。それほどまでに生身の人間の情報量は多いのである。直接、肉体を通して、会話をする。そのことにより、どれほどの情報量が身体を通じて、伝わっていくか。またその認識を通じて、どのようなことが伝わるか、あらためて敏感な人間は認識ができるであろう。

友和のための補足

 そもそも私は、このようなことを書くつもりはない。しかし、私の親しい知人が「おそらく、あなたが経験したことを書くと、それは誰かの助けになるかもしれない」と言われたので、私が知る範囲のことを書くことにした。シナリオの取材として、さまざまな取材をしてきた。政治、宗教、経済の分野の現場を取材している。少しずつ、公開していく。ライターの先輩方との情報共有をしていきながら、なるべく深部の情報を掴んでいく。その集めた情報はさまざまなところで少しずつ社会情勢の変化とともに公開をしている。ちなみに、かなり余談になるが、私はある組織にさまざまな忠告や提案をしてきた。そもそも私は争いごとは好きではない。いろいろな組織があるが、あの組織だけは、どうにも話にならない組織がある。

 私からは『直接、対面で話をすれば終わりますよ』と何度もその組織の本部に伝えているが、一向にそのご様子がない。ご近所の組織の方とは仲もよいし、はっきり言って、一切もめていない。むしろご近所さんが本部に上申をしているくらいである。

 その上、その組織の会員が私のまわりでd問題を起こすたびに、本部スタッフがやってきて、お詫びと回収をしていく。その手間は、私と一度、会い、その情報を公開するだけで、私が関係している他の組織や団体とおなじように、所属する人間はいろいろと理解をする。

 ただ思い通りにならないことがひとつくらいあるほうがよい。そういう理解もある。これも修行のひとつである、とも思う。とにもかくにも、変化できる存在は。自分だけである。そのため、私が変化をして、その相手がそれを受けて変化していく。相手を変えようとはせず、自分自身のほうで変えていきながら、相手を導いていく。

導き手としての使命

 このように書くと大袈裟かもしれない。しかし、導き手としての自覚を持つと、無理解な方々が近づかれても、その方々に説明し、理解をしていただくことが大切である、と思う。そして理解している方々はすでに近づいてこないので、『無理解の方々の存在』への説明していく行為は、私の使命と思うのである。

理解者は説明することも役割のひとつ

 私の伝えていることを多くの人間が理解しているので、もし無理解の方がいたら、ぜひ優しく伝えてほしい。それも若いみなさんの役割のひとつになっている。ぜひ粘り強く伝えていってほしいし、必ずその行為は理解される。

 他人の生き方を覗き観ることでは何も解決しないし、したり顔で評論しても、何も開けてこない。せいぜいラジオのチャンネルを合わせる程度である。

 まず自分で何かにトライしていくこと。そこに新しい人生が開けてくる。