東京雑記

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日本マンガ考察2018

これは漫画考察である。私が好む「キングダム」「進撃の巨人」「ワンピース」「ベルセルク」について、語る。この発言が何かに影響を及ぼすことはないだろうし、何かを変えることはない。ひとつの考察の区切りとして書いておきたいと思った。

 

さて、いつの時代も、マンガやアニメは子供のこころを刺激する。そして、今は大人の心も刺激する。漫画は卒業するものではなくなって、親子二代で楽しめるものになった。

 

2020年を迎える前に、この2010年~2019年の空気もふまえて、このマンガについて、書いておきたいと思った。

 

「テラ・フォーマ―」が人気がでても、なぜ「進撃の巨人」になれなかったのか、

そして、「トリコ」はなぜ「ワンピース」になれなかったのか。

 

わかりやすい部分で、「トリコ」と「ワンピース」の違いを述べる。

「ワンピース」は確かに作者の手を離れ、今も拡張を続けている。もはや限界か、という部分を、作者はなんとかこらえる。こらえ切れていない、と感じる部分もあるが、それでもこらえている。

 

「トリコ」は完全に「ドラゴンボール」になってしまった。

これでわかる方も多いと思うので、この後は駄文だ。

 

物語の終着点が「強い敵を倒す」になってしまったのだ。

しかし、ドラゴンボールと違い、「ワンピース」型の部分もあり、世界を構築していたので、破滅するしか物語としてはなかった。「ドラゴンボール」型のひとつに「幽遊白書」がある。これは完全にドラゴンボール型である。しかし何故か、世界との調和をとった。作者というよりも、マンガの根幹である主人公の行動原理。それが「闘いをしたい」「ワクワクしたい」というものだからだ。これは孫悟空と浦飯幽助は同じである。なお、浦飯幽助は途中からこういう動機になっていった。ジャンプ編集部の成功法則として、物語を続ける上でのメソッドであったのだろう。

 

これはスポーツ根性ものの発想である。この時点でバトルマンガはスポ根マンガの傍流もしくは分家であったのだ。

 

「ワンピース」は国民的なアニメになった。サザエさん、ちびまる子ちゃんにはなれなかったが、それでも、圧倒的な国民的なアニメになった。

 

ピークは頂上戦争であり、あれを書ききるには相当な思いがあるだろうし、あの後の休暇も理解できる。作品を生み出すには自らを削る行為なのである。そして、ここで、作者は主人公ルフィの行動原理に耳を傾けるのである。

 

そこから作者は、あらゆる環境をルフィにぶつける、という手法に変えていった。ルフィがどうするかは、作者も知らない。環境だけを試練として、ルフィに与える。ルフィは2年年をとり、大人にならなかった。

 

「俺は海賊王になる!」

 

それがルフィの動機だ。しかし、本質は違う。自由になりたい。何物にも束縛されず、自由に生きる。これがルフィ根幹である。その動機付けは正直弱いと思う。キャラ設定以外にこれを支えるものはない。

 

その分説明が船員たちに与えられている。

船員たちは、何かに縛られていたもの。それをルフィが自由にしていく。船に乗ることで自由を手にいれる。そこから第二の人生がみな始まっているのである。

 

ここから飛躍する。

「ベルセルク」である。

 

この筆圧で筆量の作品を書く事はなかなか難しい。かつ、作者がどこまでを書きたいか、わからない。テーマだけでいうと、すでに書ききった感さえある。

烙印からの解放はテーマではなく、烙印への抵抗がテーマなのだ。ガッツは民を先導はしないし、あくまで個の闘いに終始をする。物語はここまでではないか、と思う。

 

そして、「キングダム」である。

この物語も作者のどこまで書きたいかはわからないが、たぶん項羽と劉邦は登場させたいと思うし、歴史マンガの王道はこれまではふまえてきている。つまり終わりはある、ということ。キングダムがなぜ歴史マンガであり、王道を外しているか、という点については、主人公がまったく登場しない数か月があるのだ。

 

つまり、主人公がいなくても、このマンガは成立する。物語を熱くするのは信だが、信がいなくても成立をしてしまうのである。これはマンガとしては致命的な欠陥である。

原先生は大好きだし、キングダムは大好きだ。批判ではない。これまでの王道マンガの法則からすると筋の立て形が違うのだ。

 

たとえば、今のりょうよう戦は、これまでのヒーローものであれば、ピンチに信が登場し、「ルアー―――」と敵を一刀両断する。これがある。しかし、読者は誰もそれを望んでいないし、考えていない。これが「キングダム」である。

 

「ベジータ」と「きょうかい」

きょうかいの漢字がでてこないのは、ご愛敬。ここに「ミカサ」も加える。

主人公を守る守護神であり、ライバル。そういう存在は必要。

 

さて、読者はどの立場だ?

ここはノーコメント。

 

 

最終的に指示をされるマンガは!

それは「キングダム」。

 

なぜなら、幕引きをしなくてよくて、受け渡しをすればよい。

この手法は「進撃の巨人」でも使える。「ベルセルク」で使えないのは反逆者が彼らしかいないから、違う物語を作れば、おそらく大丈夫。勝てない指数でいうとベルセルクのガッツは勝てない。99%勝てない。

 

進撃の巨人のエレンはどちらかというと、勝てる。あの儀式をしてないということではあるのだが。あれを進撃の巨人に置き換えると、ミカサを神に捧げる、ということになる。そんなことしたら、エレンがどうするか、みなさんおわかりでしょう。

 

ガッツは、正直、そこまでではなかった。あの日、たしかにあれは正直な気持ちだが、エレンのミカサに対するほどの思いではなかった。ガッツはそれほど自由になりたいとは思っていない。

 

ちなみにルフィも自由にやっているから、自由になりたいとは思っていない。信は、広義の意味では、今は奴隷である。彼は自由を求めてはいない。王様に従っている。それが崩れていく瞬間が見ものだとしたら、あと20年はあの物語を楽しめる。脇道はおいておく。

発見は、海洋ファンタジーが生まれるのは、日本が島国であるからだし、日本の教育が起因する。

 

「キングダム」は主人公の信を登場させることで、おもしろくなるし、矛盾をどんどん突きつけられて、彼(信)が勝手に行動をして、作者を困らせると思う。

それでいいと思うし、他の物語では、それをさせない、ビブス様だし、リヴァイ班長だし、キャスカと魔女になる。「キングダム」では政ときょうかいとかりょうてんともうてんとおうほん、この辺りだが。

 

主人公は作者を困らせてなんぼ

ではないか。

今の主人公の目的は「強い敵を倒す」ではなく「自由を手にいれる」に変わっている。そのための手段として強くなるだけであり、強くなることが目的ではない。